この不仕合わせな安らぎ
一 あさましき世界
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。
学生の頃に授業で見せられた『映像の世紀』で、ポル・ポトの台詞が引用されていたことをふと思い出したのだった。当時は同級生と教室でその余りある理不尽を笑っていたが、今車窓に映っているつり革を握った僕自身の顔は、ポル・ポトにとっては理想的な表情をしているように思えた。
文庫本を手元に開いたまま、真黒い背景の透明な鏡面の中を見回した。全ての人間がスマートフォンを食い入るように眺めているから、ただ窓の方を見ている自分は、その中では異質な人間であるようにみえる。少年時代は実家のリビングでくつろぎながら動画を見ていると、よく父に「お前、スマホ依存だ」と大声で嫌みを言われたが、物憂げとも言えないうつろな面持ちで棒立ちしている今の僕の方が、車両の中ではよほど病的に見えるだろう。三十を手前にして定職もないというだけでもスーツをぴっちりと着込んだ者たちが知れば軽蔑に値するかもしれない。
不況に見舞われた勤め先から真っ先に首をきられて以来、大学の同輩たちに幾度、自分の身の上をわらわれたか知れない。世間の状況に不平を垂れながら新しい職を探しても見つからず、やがて退職金も尽きてあえなくフリーターと名乗らざるを得ない地位まで転がり落ちた。人当たりは悪く、仕事も不出来な自覚はあった。加えて就職以来仕事にほとんど身を入れずに生活してきたから一概に不況を免罪符にするわけにもいかなかった。そのくせ内心では世間の事情という不可抗力がきっかけになって食い扶持が失われたことに燻るものが残り、不意に部屋で冴えない男然とした格好の自分の鏡像が目に入るとやるせない感情がこみ上げてきたりもする。呼ばれる飲みの席にひとり私服で登場したらどっと起こる笑いには、吊られて自分も笑うしか無いが、嘲笑を受け容れるたびに内心でなにごとか大切なものが歪んでいくような苦々しい実感はいつもある。
大学を卒業すれば人生は安泰だと、そんな言葉を疑りながらも周囲に流されるように信じて黙々と受験勉強をしていた頃の自分のことが、先ほどは唐突に思い浮かんだのだ。大人たちが口を揃えて推奨する筋道に従って歩んでいるとき、この世のあらゆる出来事が画面上のフィクションのように見えて可笑しかった。今はその道を踏み外して、数多の喜劇のひとつを当事者として演じている。
現実を言葉の上でもてあそぶ類いのSNSにはもはや不愉快と虚しさしか感じなくなった。同じ趣味の話をする友人をいくら見つけ、彼らがどれほど言葉の上で自分のことを肯定してくれようとも、現実の不格好な自分の醜さは誤魔化せないような気がしてむしろ落ち着かなかった。アプリを消去すると、必然的にスマートフォンを触る時間も減った。金も無かったのでしばらく暇つぶしには窮したものの、古書店で本を漁るようになってからは読書が最も手近な趣味になった。
職場で自分よりも若い女性にその話をすると、「すごい、デジタルデトックスですね」と、女子大生に特有とでも言うべきなあの甲高い調子で申し渡された。自分の余暇を潰すだけの趣味を威張り散らすつもりもなかったのに、そう言われると妙に不愉快だった。あまりに手垢のつきすぎたのが目に見える言葉を拒絶したかったのかもしれない。これまでもそんなことで幾度となく人と衝突してきた。前の職場では特に、仕事のできる器量の良い連中ほどそのことが気にくわない様子だった。
だがフリーターになってからは自然と、腑に落ちない事は口の端に微笑を浮かべてやり過ごすようになった。もはや落伍者のような自分が、家事を抱えた主婦や、常に真っ当の範囲内で遊びに勤しむ学生たちなどに馬鹿真面目に立ちはだかるのもあさましく思えた。そうしてみると職場での自分は物静かで会話が苦手な人ということになり、人畜無害な変わり者と見做されているようだった。必要以上の干渉のないことは有り難かったが、代わりにくだらない誤解を無抵抗に受け容れるしか選択肢がなくなった。抗ったところで、また粗雑な言葉と理解が彼らの仲間内で笑いとともに反復されるだけなのは、もはやわかりきったことだった。納得のいかないものを一つずつ除去しても、殺伐とした生活がそのままいたずらに継続していくだけらしいと、自分は素肌の感覚で理解し始めていた。
職場にいけば黙々と仕事をし退勤時刻まで静かな機械のように働き続ける。退勤した後、真っ先に私服のティーシャツへと袖を通し誰とも目を合わせずに事務所を出ていく。帰路につきながらときどき、喜怒哀楽のいずれにも属さない表情を浮かべた自分の姿を車窓の中に見つける。
電車移動が終わると、最寄り駅から家までは十分程度歩く。徒歩の時間が一番怖ろしかった。
改札を通過して表通りに出ると、既に駅前の往来はまばらだった。色の褪せた街灯に照らし出された通りに、東南アジア系の訛りが残る女のキャッチが二人立ち、いくらかの酔った若者がコンビニの前でたむろしているほかは、通行人が二、三いる程度だった。キャッチの女の、切って貼ったように作られたいやに生々しい笑顔を直視しないように避けながら、声かけをかたくなに無視して早足で通りを突っ切る。下世話な空気への抵抗がむしろ足取りを軽やかにしてくれる。ここは良い。
問題は繁華街を抜けて住宅街の道を歩くときだった。ここで不意に想念に上るやるせないことがあるとたちまちに足取りは重くなる。歩くということの重さが、雑踏の沈黙した夜道の上では一切の軽減もなく下肢にしがみついてくる。
一度、真冬の夜中にここで座り込んでしまったことがあった。何か、自分の意思をくじくような運命的な出来事があったわけではない。ただ肉体が酷く疲労を蓄積していただけだった。意思の力が衰亡して身体まで渡ってくれず、どうしても立ち上がることができなかった。潰れた酔っ払いのような僕を訝しむ通行人のひとりでもいれば恥ずかしさによって即座に立ち上がれただろうけれど、すばやく道路を横切りながら数度こちらへ視線をよこした猫の他には、誰も自分を見つけることはなかった。再び立ち上がって帰宅するためにどこに源があるとも知れない意思を奮い立たせようと、縋るようにスマートフォンの中を覗いた。アスファルトの冷たさが背中を覆っていき、くしゃみが出始めて、鼻水がうっとうしくなってようやく立ち上がれた。
シャワーで身体を温めてから、酒をあおろうとも考えたが、ただ翌朝起きるのが苦しくなるだけだと思うとそんな気も起こらなかった。
その日を過ぎてから今の今まで、宿命的な出来事があったということもなく、生活は続いている。近頃はようやく、夜の殺風景に心を吸われて意思の薄弱になるような機会が遠ざかった。殺伐とした生活に、肌が馴染み始めたような感覚もあるほどだった。ただ表面のざらついた荒涼とした感情がその身を固くして内部に膠着しているようで、それが喜ばしいものであるかどうかはわからない。
時折傍らを通りすがる車や、畑の奥でおだやかに明滅する電波塔の明りなどを見やりつつ、空の頭を振りながら歩くうちに、帰巣本能じみた無意識が身体を部屋のドアの前に立たせている。帰り着くのはいつも「いつの間にか」と呼ばれる瞬間だった。ドアノブを引くと鍵はかかっていたが、傍らの窓を見ると淡いオレンジ色の明りが漏れていた。
バッグの中へ手を弄り入れて鍵を探していると、足音が玄関へと近づいてくるのがわかった。指先は鍵の冷たい感触に触れていたが、麻里が内鍵を捻り出したのがわかったので諦めてドアが開くのを待った。
「おかえり」
急に視界が明るくなった。
「うん」彼女が中から現れることは予期していたのに、喉で言葉が詰まって呻くようだった。「ただいま」
麻里とこの部屋に同棲し始めてからもう二年経つ。大学生のときゼミで知り合った彼女との交際はもっと長い。今更この部屋に入ることには何の遠慮もないはずなのに、帰宅するごとに戸惑いを覚えている。麻里によって片付けられ、インテリアを整然と並べたこの部屋の持つ穏やかさ、それから風の音が突然消えることが不可思議なことのように思えてくる。
「自分で開けたのに」
「ドアがちゃがちゃ言わせすぎ。全然入ってこなかったし」冗談めかした風に眉をあげて言った。「鍵探すの下手なんじゃない?」
麻里は微笑を浮かべながら身を翻し、僕が靴を脱ぐのを待たず廊下を奥へと戻っていく。と思うと土間へ無造作に放られた靴を一瞥して、「後で揃えてね」と小言を言った。
「ご飯いる?」
「うん」
「温めとく」
促されるままに、小さな食卓の傍にあぐらをかいた。溶けていく緊張感をとどめていることはできなかった。麻里の傍まで歩み寄って何かを手伝おうとも思ったが、たいしたこともできないのに狭いキッチンで居並ぶのも野暮に思えて何もしなかった。程なくして、テーブルの上にレタスのサラダと、炒められた肉が並んだ。
「つくったの?」
「そのメニューでレトルトはないでしょ。簡単だけど」
簡単といっても、仕事を終えてからその意欲を立てる方法が僕にはわからない。この柔らかく刺激のない空間に足を踏み入れてから、何かを作り出そうという気力は途方も無いものに思えてしまう。
「申し訳ないとか言うつもりでしょ」
「言うよ、それぐらい」
「今さらじゃない?」
先んじた彼女の笑いに吊られた。冷静に考えれば不自然なほど、自然な距離感だった。
「麻里は寝なよ」
「寝ても朝は眠いからいいの」
理屈にならない理屈で話の腰を折るのは彼女の常套手段だった。僕が眉を顰めて何事か重苦しい話を始めようとしても、いつもそのやり方で明るく茶化された。
麻里を目の前にしているとき、僕は全てをはぐらかされて脱力する。動きが鈍くなっていく僕の身体を、ときどき彼女の腕が捕らえる。そのときには何故かもう食事も風呂も歯磨きも済んでいて、どこにでもいる恋人たちのような交接がはじまる。脱力しきった身体が、彼女の指が触れることに抵抗するようにして動くと麻里の口の端に笑みが浮かんで、その笑顔を見るともう意思の全てが無意味に思えた。下腹部や口元に感じる柔らかさ以外は何も意識できずに性欲が僕の存在の全てになる。そして事が済んだとき、その全ては明かりを消した部屋の中に霧散する。
行為を終えた麻里が虚脱感にまみれている僕を咎めることはない。水を少し口に含めば、一人で荒涼とした気分を取り戻している僕の隣で、朝の出勤に備え穏やかな寝息を立てはじめる。天井に見つかる模様を凝視しながら、暗闇と時間の経過にえたいの知れない焦りを助長されるまま、時折麻里の頬や肩に触れて交接の多幸感を想起しようとする。しかし幾度それを試みても数秒と保たずに、結局あの住宅街の寒さに引き戻されることになる。
住宅街はオフィスビル街よりもずっと無機質で怖ろしい、と脈絡もなく考えていると、なぜかポル・ポトの口元だけ微笑んでいるようなあの肖像が瞼の裏に浮かんだ。
二 衝動
右手の人差し指の腹の隅にうっすら黒いしみがある。小学生の時に、自分で鉛筆を刺してできたものだ。命じられたわけでも、深く思い悩んで錯乱したのでもない。その頃の自分の胸の内はこのうえない平穏そのものだった。刺したのは他でもなく、自分の中にただそうしてみたいという衝動があったからだ。
午後の授業中だった。眠気と戯れながら手遊びをしていると、柔らかく湿っている褪せたところのひとつもない少年の指と、鈍く黒く煌めいている削りたての鉛筆の尖端を交互に眺めて、湧き上がる欲動を抑えることができなくなった。座っている椅子に指を寝かせ、机の底面に鉛筆を立てると、尖端の延長線上にある指が椅子の上で若干固定される形になった。そのまま椅子を浮かせて、確実に指の腹から爪の裏まで貫いた。
痛みの感触の記憶はあまりない。けたたましく叫んでから、傷口を一瞥したことは覚えている。カルデア湖のように豊かに血を湛えた丸い穴が、今ある黒いしみの位置に浮かんでいた。悦楽も満足もなく、耐えがたい苦痛に呻いて保健室まで駆けていった。今の今まで、自らそうしようとした理由が、自分でもまったくわからない。ただそこには名状しがたい衝動だけがあった。
その出来事は鋭い痛み以外の何の事件も導出しなかった。しばらくの間はずっと、誰かに語るということもなければ自分の記憶からもほぼ完全に放逐されてさえいた。
しかし何故か一度だけ、そのことが思い出されて口にしたときがあった。相手は大学生の時同じ演劇サークルに所属していた村山だった。新宿にある地下のカフェ・バーのテーブル席で、素面で話していた。経緯は忘れたが、この話をすると煙草の煙を吐き散らしながら村山は笑っていた。
「痛みって俺たちにはよくわからないんじゃないかな」すこし黙ってから、村山は言った。
「よくわからない?」
「全部抽象的なところに解消されてしまう。括弧付きの心の痛みとか」
入学当初の僕は恐らくほとんどの大学生と同じで、やけに意気揚々としながら飲み会に入り浸っていた。何人かの女性とは無意味な関係を持って、何かから逃れるようにして浴びるような快楽だけを求めていた。その中で村山だけは妙に落ち着いていた。はじめは接点も少なく自然とした距離があったが、サークルの活動で触れあう少ない機会のうちにいつの間にか腰を据えて話をするようになっていた。
「具体的な痛みが欲しかったんじゃない?」村山が言った。
「覚えてないな。やってみたいだけだったから」
「でも自殺ともリストカットともつかないね」
「やってみたいだけだからね」
短くなりきった煙草を、村山は灰皿に押しつけて潰した。僕がコーヒーを口に運ぶと、そこで一度、一定だった会話のリズムが停止した感覚があった。カフェで相対する二人の所作から紡ぎ出されている独特のリズムを感じるのも、村山と会話しているときだけだった。
「なにもないところを見るとね」
「なにもないところ?」
「なにもないというか、海とか、木の生えてない野原とか。まっすぐな道路でもいい」
村山の指示するそれが、単なる無の概念でないことはなんとなく理解できた。
「ああ」
「そういうところを見ると死にたくなる」
あまりの突拍子のなさに失笑が漏れた。一種の言葉の飛躍のようなことを村山は相手など構わずにした。
「むしろ気分がよくなるものでしょ」
「いや」彼の指は煙草をつまんで口へと運んでいた。「気分がいいとか悪いとかじゃない」
「よくわからないな」
村山は再び口をつぐんだ。彼が矢継ぎ早に何かを語ることはなく、特にこのカフェでの会話では、僕たちは互いに「待つ」という所作をとる様になっていた。待っている間に何かを引き出そうとする村山の仕草は、僕にとってかすかに心を躍らせるものでさえあった。
「たぶん、解放か、回帰か、そのどちらかだ」
村山の目は僕を見ていなかった。頬杖をついている手の指先を唇へ触れさせて逆の手で煙草をつまんでいた。一瞬間前に自分が吐き出した煙に向かって話しかけているようだった。
随分前のことになるが、その彼の姿は妙に記憶に残っている。ある程度読書と思索の経験を積んだ今なら、突拍子もない彼の言い回しを多少理解できるようにも思える。沈黙し、それから何か言葉を口にしたとき、目線を泳がせた先に彼はいつも揺るぎないなにかを見据えていた。見据えながら、その瞳は小刻みに揺れていた。その態度こそがいま自分に必要なものだと思えるときさえある。僕は当時から、心のどこかで村山の生き方に憧れていたのかも知れなかった。
だが村山との連絡は大学卒業後しばらくして途絶え、以来はそのままだ。
「もうしないでね、そんなこと」麻里は村山とは違う反応をした。
高速を運転しながら、指の跡のことが偶然口を突いて出たのだった。自分の走っている「まっすぐな道路」が、村山の記憶からその話までを遡行させたのかもしれないが、なんにせよそのきっかけは無意識でしかなかった。
「しないよ」ハンドルを握っているせいか、自分もいくらか饒舌になっていた。「めちゃくちゃ痛かったし。二度とやらない」
「当たり前だよ」
旅行に行きたいと提案したのは麻里の方だった。しばらく生活の余裕もなくなっていたので、飛行機や新幹線を使って遠出などはできずに近場に車で行くことになった。しかもレンタカーの出費を気にしていると麻里が実家から車を借りる約束を取り付けていたので、その手際の良さには舌を巻き、ますます頭が上がらなかった。
行き先は南房総の海辺の街だった。僕が海を見たいとぼやいたのを麻里がすかさず承諾した。
生まれも育ちも関東の内陸部だったせいか、海には特別な憧れがある。あらゆる恭順を疎んで拒絶を繰り返してきた自分が、波を通して現れる膨大な質量の音と躍動とを前にしてはその無力をわだかまりなく実感できた。不況や身体の疲れのような経験から現れる諦念とは違い、海に覆われた景色は自分の手の及ぶ空間をそうでないところから分離してくれるように思えた。
「晃って結構ポエマーっぽいところあるよね」
車線変更の補助のために後方を見ていた麻里がこちらへと向き直ったのがわかった。麻里の瞳は後から眼球の中心をくりぬかれたかのように大きく、横目にもそれがうごめいている様子は読み取れる。豊かな沼の底の濁りのような黒さとそこに湛えられたきらめき方は、正面から見つめたとき視線を運ぶ足をとらえて眼球の筋肉を鈍麻させる。
「ポエマーっていうなよ」
「ごめん、でもそうでしょ。最近詩集とか読んでなかった?」
「読んでるね」
「私も読んでみようかな」麻里の声はいつもどこか間延びしている。「なにがいい?」
カーステレオからは、もともと自分が好きだったチェット・ベイカーのアルバムが流れていた。00年代の邦楽が好きだった彼女に初めてこのCDを聴かせたとき、素朴に「いいね、晃っぽくて」と言ってくれたのが無性に嬉しかった。その言葉に、男女の間柄を前提にされた者同士の忖度はまるで感じられなかった。麻里の穏やかな声音のその奥に、たったいまくすぐられた本物の感触が、心にとっての身体がある気がした。
いつの間にかこのアルバムは二人の間にいつも流れているバック・グラウンド・ミュージックになった。チェットの緩く軽快なボーカルが麻里の声を覆って僕と彼女との間に溶け込ませていた。そんななかで麻里の耳のピアスが鋭く光ったりすると、世界には彼女しか存在しないように思えたりする。ちょうど果てしない水平線の一所に島を見つけたように、視線がそちらへと集中してしまう。
「そういえば」
海の印象が、また村山の台詞を連想させた。だがあの突拍子もない言葉が僕の口から出れば麻里が眉を顰めることは目に見えていたので、つい口ごもった。それがむしろ麻里に付け入る隙を与えてしまった。
「え、何?」
「なんでもないよ」
「でた。また何か考えてたでしょ」
「何でわかるんだよ」
「もう結婚してもおかしくないくらい一緒にいるからね」
結婚という言葉は、文字通り否応なしに僕たちの関心を釘付けにしていた。
ちょうど二ヶ月ほど前にゼミの同窓会が開かれ、麻里に連れ立って自分も顔を出すことになった。友人の中には既に子供のある者も多く、麻里の周囲は結婚と子供の話題で持ちきりになっていた。以来心なしか麻里が「結婚」という言葉を口にすることが増えたように思える。僕を責める意図などはつゆほども感じられないのに、ことあるごとに彼女の口からこぼれるその言葉には脇を鈍く小突かれているようだった。
「また謝ろうとしてる」
「だから、なんでわかるの」
運転の余裕がない中で思わず麻里の方へ目が飛んだ。大きな瞳で僕を見つめた麻里が、頬に皺をよせて笑っていた。それだけ見えたとき、ハンドルの操作が覚束なくなったのですぐフロントガラスへと向き直った。視界に収めた一瞬で彼女の笑顔はいやに脳裏へと焼き付いた。車線を逸れかけた車の体勢を立て直しながら、脳裏に焼き付いた麻里の顔が一瞬間に何度も想起した。
いつの間にか道路は一車線になっていた。視界の隅は高速で流れていきながら、まっすぐな道は遠く山間のカーブまで変わりばえなく伸びている。先行する車も後続車もない。ステレオから流れる穏やかながらに小躍りするようなトランペットは、その音色がどこか麻里の声に似ている。
瞬間、限界まで張られた弦がひきちぎれるように、胸の中でひとかたまりの血液が閃いた気がした。足がアクセルを強く踏んでいた。膝は拘束をとかれたバネのように伸びきっていた。足下が低く唸りながら、アスファルトを擦るタイヤの音には徐々に力がこもり始めた。視界の流れの移り方が変わり、脇腹に一滴の汗が伝う。手のひらは湿って、視線が景色の中心に釘付けになった。隣の車線を走る対向車が弾丸のような音を立てて自分の横を突き抜けていく。
カーブに差し掛かりハンドルを切ると身体が横に滑り出すのを感じた。麻里が何かを言っていたが、意識はもう速度と一体になって自走していた。一方で確かに、麻里の言葉は耳に聞こえていた。目を見開いて口の端を歪め、焦燥と怒りをあらわにする麻里の顔が胸に浮かんだ。
いつか彼女に這いつくばるように謝る自分の姿があることを想像した。いつも食事を作らせたこと、生活費をしばらく任せきりになったこと、何度か他の女性と関係を持ったこと、僕の欲求不満をいつも先回りして解消してくれていたこと――清算しなければならない借りが多すぎる。しかしそれは今ではなかった。僕の罪の全てはここに現れているのだから。
この道を走り切ってどこかに辿り着くことはあってはならない。それはなにもない場所にあるものだった。僕たちは永遠にこの道を走り続け、いつか、決して訪れないその日に車体がまるごと爆発四散して跡形もなく吹き飛ぶ。その間中、チェット・ベイカーは青春を回顧するように間延びした声で歌い続ける。
「そろそろ、スピード落とした方がいいよ」
膝が急に柔らかくなった。前方に先行の車が見えていた。タイヤの音は鳴りを潜め、景色の隅の流れは次第に緩やかになり、視野は見えている全体を広く捉え始めた。身体を包んでいた汗が冷やかな温度を主張して肌にしみた。
「大学生のときみたいだったね」
麻里は変わらず笑っていた。
三 村山の手記
大学の演劇サークルで同期だった佐川と偶然再会した。新宿のバーカウンターで本を読んでいたら、たまたま隣に腰掛けたのがこの男だった。以前よりずっと、彼の身なりはしっかりしていた。薬指には指輪があったので、経済的には十分に安定しているらしく、昔の彼の印象からはそれは意外のことだった。
「結婚したの」私は真っ先にそのことを訊いた。
「そうだね。子供もいる」
佐川にはいつも連れだって歩いている女がいたが、屈従を嫌う彼の気質にはまったく合わない相手のように思えた。浮き足だった大学の空気には侮蔑を覚えながらも気を軽くさせられ、苦い失敗の記憶も刻まれていたので、佐川の交際も同種の過ちのひとつのように感じていた。
「お前がするとは思わなかった」
「そう?」
「できないと思ってたから」
佐川は口の片端を曲げて笑った。鬱屈とした色のある、抑えられた笑いだった。それは以前の彼と同じ仕方であり、しかし当時よりも一層濃密な雰囲気をまとっていた。
「麻里とは別れた」それはまさしく大学時代の彼の恋人の名前だった。「結構長いこと一緒にいたけどね」
そこまで聞くと、お互いに沈黙してこの話題は流れてしまった。身持ちの重くなったのは意外のことではあったが、麻里という女性と結びつかなかったのなら、後は諸々の偶然が引き起こしたことと思えばまったく自然なことだった。なにより彼の個人的な事情はもはや私には関わり合いのないことだ。
このカフェ・バーは学生だったころ佐川と私が通い詰めた店だった。学校からは若干距離があり、くすんだレンガ模様をあしらった狭い入り口から地下に降りていく店の構え方が気に入った。席の周りでは大きな音でジャズが流れていて、ちょうど対面する相手以外の声音をかき消してくれるのも良い。だが学業を終えてからはほとんど足が遠のいていた。仕事の関係で新宿を訪れ、偶然近辺で時間を潰す用事があったので立ち寄ったところに佐川と出くわしたのは、驚くべき巡り合わせだった。
「前よりも本を読むようになった」佐川の切り出し方はどこか厳かだった。その緊張を伴った面持ちは自分の気分にも親しいものがあった。
「どうして?」
「それが僕のせつに欲するもので、それ以上のことは欲することができないから」
「欲することができない?」
その問いには応えず、気づけば佐川は学生時代には吸わなかった煙草を取り出していた。それは多くの人々の経験する、不満を押し殺した素朴な幸福には恵まれ得なかった、本当の人間による所作だと私は思った。彼に自分のやる劇団にこないか提案したが、彼は首を振って再び笑みを浮かべた。
「ここにいると、僕たちは何もできなくなる」
「こことは?」
佐川は顎に手を添えて、自分の言葉を後から検討し直しているようだった。いつも思考を凝らしながら漸進的に説明する、どこか不器用な印象のあった昔の彼の話し方とは根本的に異なっていた。
「平和だ」私を一瞥しながら彼は言った。「昔、このカフェで村山が話していた『解放か、回帰か』。覚えてる?」
それは私が学生時代に掲げていた、ひとつのスローガンの様なものだった。細分化と趣味的傾向を強めていた芸術の世界に、なんらか人間普遍の本質を突きつけたかった。芝居がかった大げさな言い回しではあったが、今の自分にも通底している主題だった。
「それはここでは不可能だ。だからもう足を洗うことにした」
その言葉に私は、即座には何も返せなかった。それは佐川が自分自身に言い聞かせている気休めだと思った。しかし私には彼が本来相対するべき問題へと対峙するよう言い聞かせることも、そこから逃走してしまうことを承認することも出来なかった。
麻里という女に取りつかれたときも、彼には似たような傾向が現れていた。安息を絶えず求めながら、いざ安らげばそれを破るような痛みを彼は欲していた。佐川には度々女性関係のトラブルがあったが、彼のそういう性質に起因していたのだろうと推察していた。
「だが、お前はせつに習慣以上の言葉を欲しているわけだ」一呼吸の後に、そう彼に言った。
佐川は片頬を歪ませるようなあの微笑を再び浮かべて、色づいた嘆息としての白い煙をカウンターにぶつけた。彼が瞼を絞り、私の前に置かれた灰皿の辺りに視線をひらめかせる間、私は彼から目を離せなかった。
「ひとつのはけ口だから。不思議なことだけどね。本を読めなくなるほど忙しいとき、脈絡もなく叫んでしまいたくなる。いや読んでいても、ときに周りにあるものをぶち壊してしまいたくなるんだよ。公園にいるカメラマンの高そうな一眼レフとか、身重の女性が大きくなった腹を抱えながら歩いているのを見ているとき、あってはならないことが高まるのを感じる」
「だから、欲することができないということか」
「もしかしたら麻里はそれを許してくれたかも知れないけれど、今僕は許されるのが一番怖ろしい」
「許されるのが?」
「許されたら、僕はどこまでもいける。ちょうどこの煙のようなものだ」短くなった煙草の火を潰しながら、立ち上る最後の煙を指して彼は言った。「本の言葉はただ、輪郭を顕わにしてそこにあるばかりだ。僕を否定も肯定もしないが、『私はあなたではない』ときっぱりそれだけは宣言してくれる。煙のように消えはしないし、消させてもくれない。お互いに」
私は、この会話がいま沈黙すべき所にたどり着いたと感じた。ロックグラスを傾けて中の氷を覗きながら、私は私の中にある彼の印象を反芻してみることにした。
学生時代、自分と佐川を目の敵にするような人間は少なくなかったが、私と彼とではその原因は大きく隔たっていた。私の場合は、姿勢の違いがサークルや仲間内で浮いたからだが、佐川の場合はその自分に眠る身体の衝動を抑えることが出来ないからだった。少なくとも佐川は、真っ当な人間とはとても言い難い、格好ではなく性根の曲がったいわば素行不良の男だった。
私は佐川の抜き身の性格に、ぬるま湯のような大学生活の中でまさしく冷や水をかけられるような心地よさを感じていた。限りなく通俗的なこの男の言葉や行動を、自分の思索の為のひとつの触媒にしていた。だが今、彼は力みも綻びもない面持ちで煙草を吸っている。かつて佐川の大部分を占めていた通俗の陰は、いま一房の大きな実に覆われて見えない、萎びたへたのように感じられた。
「小説の人物は運命的なことと行き会う。思想書の著者は苛烈に語りかけてくる」カウンターに並んだ瓶へと語りかけるように、佐川は力の籠もったジェスチャーをまじえて言った。「触発されて、意気揚々と街に出れば、平和な世界が待っている。嵐を望んでいるわけじゃないが、僕にはどうしてもこの平和が僕のいるべき場所には思えない。ずっとそうだ」
「しかし平和の外に出て生きてはいかれない。俺たちなんてすぐに死ぬよ。弱いから」
彼が何を得たのか、彼自身から練り上げられる言葉の現れを促したかった。彼に与えられた問いは、あらゆる経験や分析よりも私たちに近いなにかを表している象徴のように思えた。
だが、佐川はそれ以上何も言うことができなかった。しばらく煙草をくわえたり置いたりしながら考え、ジェスチャーの手は加速と停止を繰り返し、幾度となく開始されようとするなにごとかは絶えず佐川の瞳から泳ぎでていった。そうして、しばしの沈黙の後に、
「海を見に行くのが好きだ」
と出し抜けに彼は口にした。
「どうして」
「あそこにはいつも何かある気がするだろ」
「何かって、なんだ。それを――」
「この前行ったときはね」
ずっと瓶の方を見ていた佐川の目が、ぐっとこちらへ向き直った。
「目のいかれてるハリセンボンの死体があったよ。嵐で打ち上げられたらしい」